失われた30年の原点であるプラザ合意
1985年に行われたプラザ合意、この合意は、日本経済史において非常に大きな意義を持っています。
この時代は、バブル崩壊や日航機墜落事故などの非常に大きな出来事が起こっていますので、あまり大きな出来事として認識されていないことが多いと筆者は感じていますが、今の日本経済の原点がここにあると筆者は思っています。
まずは、このプラザ合意の内容について、考察していきましょう。
アメリカを救うための合意だった!?
1970年代から80年代にかけて、日本経済は活力にあふれ、アメリカを猛然と追い上げていました。
79年には、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出しました。この本は日本の経済成長の原因を探ったもので、日本人の学習意欲、読書意欲を高く評価していました。なによりもこの本は、日本人に「もしかすると、日本はすごいのかもしれない」と自信を持たせることとなりました。
アメリカも、このままではやられてしまうと、日本経済を警戒していました。
しかしながら、アメリカはこのころベトナム戦争や国内のインフレなどで、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」に苦しんでいました。
※このころの状況は以下記事を参照ください!
takewoinvestment.hatenablog.com
各国も、アメリカの不況が続くことを良しとしていませんでした。
そこで、各国(アメリカを含む5カ国(アメリカ、日本、西ドイツ、フランス、イギリス))の政府が通貨政策を調整し、為替市場に介入することを目的とした協定を締結することとしました。
この協定がプラザ合意です。
この合意は、が、ドル高を是正し、円高を促進するために行いました。具体的には、ドルの価値を下げ、円の価値を上げることを目指していました。
プラザ合意は、経済的な調整や通貨政策の調整を目指すものであり、敵対的な意図を持った経済戦争ではありませんでしたが、結果として、日本経済に大きな影響を与えます。
プラザ合意とはいったいなんだったのか?
当時過度なドル高の対策に頭を痛めていた米国の呼びかけで、ニューヨークのプラザホテルに先進国5カ国の大蔵大臣(米国は財務大臣)と中央銀行総裁が集まり会議が開催されました。
この会議では、ドル安に向けた各国の協調行動への合意が発表されました。
基軸通貨であるドルに対して、参加各国の通貨を一律10~12%の幅で切り上げる為に、外国為替市場で協調介入を行うというものでした。
最大の目的は、ドル安によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らすことにあっりました。これがプラザ合意です。
プラザ合意による日本への影響について
この合意を受け、急速な円高が進行しました。
プラザ合意前日の東京市場では1ドル=242円であったが、1985年末には、1ドル=200円を切るまでの円高が進み、さらに、1988年の年初には、1ドル=128円をつけるまで進行しました。
円高で競争力の落ちた日本国内の輸出産業や、製造業を救済する為に、円高対策として、1987年2月までに5回の公定歩合引き下げが行われました。当時としては、戦後最低の2.5%となりました。
金融市場では、急激な円高により、米国債券などに投資していた資金に為替差損が発生しました。その結果、運用資金は為替リスクのない、国内市場に向けられていきます。
その結果、株式市場では株価が上昇し、不動産市場では地価が上昇していきます。
さらに、資産の増大が、個人・企業の含み益を増大させ、担保価値や資産価値が増大することで金融機関による融資も膨らみ、バブル景気が起こっていくこととなります。
まとめ
さて、日本経済史にとって、かなり重要なプラザ合意について考察しました。
次回は、改めてバブル景気について考察していきたいと思います。